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ここでは郷土(朝倉町)の歴史や、郷土の名所旧跡を紹介します。

18.04.15 漏刻時の記念日
     恵蘇八幡宮の東側の鳥居をくぐり、石段を上っていると、程なく写真のように黒っぽい階段タンスのような形をしたものが
     右側にあります。これは何?・漏刻(水時計)の模型です。漏刻は、一番高い箱から夜天池、日天地、平壺、万水(分)壺から
     なり、それぞれの箱間はパイプでつなぎ、夜天地に水を満たすと、水は順次下にゆっくり流れ、万水(分)壺に溜まる水量で
     浮き矢が上がり、刻まれている目盛りで時刻を読み取る構造になっています。漏刻は、天智天皇が初めて作られたことが、
     昭和五六年(一九八一年)奈良県明日香村の遺跡で大規模のものが発見され、確認されました。日本書記には「天智十年
     (六七一年)六月十日に漏刻を作り、鐘や太鼓で時を知らせた」との記述があり、これに因み六月十日が「時の記念日」と
     大正九年に制定されました。天智天皇をまつる朝倉町の総社・恵蘇八幡宮では、大正十一年より毎年六月十日に、
     町・議会・学校関係者や氏子などが集い、式典が催されます。このような「時の記念日」を祝う式典は、全国的に数少なく
     朝倉町の貴重な財産です。八幡宮境内にある漏刻模型であっても歴史的に興味深く、一度は訪れたい場所の一つです。
     (現在、崩れて作動しないのが残念です)。「あさくら商工会だより第37号」より

    

16.06.25 筑紫舞(つくしまい)
     九州発祥の芸能筑紫舞は、傀儡(くぐつ)という芸能者集団により伝えられ、能や歌舞伎等日本伝統芸能の源流と
     いわれています。その筑紫舞を描いた絵馬が朝倉町長安寺の朝闇(あさくら)神社で見つかりました。(天保4年作)

   

16.01.15 朝倉町の溜池の由来
      朝倉町に旧宮野・旧朝倉合わせて三十八ヶ所の溜池があります。具体的には旧烏集院村七ヶ所、旧宮野村七ヶ所、
      須川村十四ヶ所、旧山田村は六ヶ所、旧菱野村三ヶ所です。殆んどのため池が江戸時代よりも前に作られているようです。
      その中でも上須川にある三反田(サンダンダ)溜池がもっとも古いようです。記録によりますと上須川の星野家の先祖が
      八女郡の星野村から菅生(スゴウ)の池(現上須川)に来た後に作られているようです。現在より324年前、
      1679年延宝七年ごろのようです。(江戸時代のはじめごろ)この三反田の溜池が出来、水の利用が盛んになると
      水田が段々と増えて米のとれ高もぐんと多くなった事がハッキリと記録されています。
      特に妙見川筋に水田が段々と増え旧宮野村についで旧須川村が朝倉町では一番米のとれ高が多かった事があります。
      昔の米つくりは、堀川が出来る前は山ろく地帯(宮野・須川・菱野・烏集院村・山田村)が盛んであった事がわかります。
      旧古毛村や多々連・田中などは堀川が出来て穀倉地帯(米どころ)になった事は、みなさんご存知のとおりです。
      この様に朝倉町の山間部の溜め池は水害・山くずれ防止や飲料水などのためでなく、米づくりの大事な役割のために
      私達の祖先が血と汗を流し米を一俵でも二俵でも多くつくりだしたいための大事な溜池です。また農民が生きぬくための
      大変な智恵と苦難で生まれたものです。そして星野家の先祖が作ったと言われる三反田を手本にして上須川の溜池や
      宮野の溜池・隣村の菱野の溜池、山田村の溜池等が次々に作られていったのではないかと考えられます。
      こう考えて見てきますと川の小さく少ない所にたくさんの米がとれたのは溜池のおかげであり、朝倉の溜池は、
      宝物以上の先祖からの贈り物ではないでしょうか。(あさくら商工会だより第35号平成16年1月5日)

14.10.12 朝倉町下町外畑(しもまちそとはた)遺跡第3次調査について、福岡県教育庁総務部文化財保護課の
       現地説明会がありました。
      (遺跡の立地)
       下町外畑遺跡は、朝倉町中心部を東北から西南に流れる桂川(筑後川支流)の西岸河岸段丘の南端に位置します。
       遺跡の標高は31mです。
      (まとめ)
       今回の調査では、1号墳が全長約60mの規模の前方後円墳であることが解りました。その墳形と規模から考えても、
       この古墳が4世紀前半の朝倉地域における首長墓であったと考えられます。

    

14.03.14 比良松の県営住宅跡地で奈良時代(約1200年前)の「官衙(役所機構)」と見られる大規模建物群
       が発見されました。同規格の建物が整然と配置されており、建物配置の状況から郡衙政庁の
       可能性が最も高く、甘木朝倉では初めての発見です。郡衙とは律令時代の国郡制による自治機関
       で奈良時代の郡役所と考えてよいでしょう。朝倉町は上座郡(かみつあさくら/ジョウザ)にいります。
       郡衙には政庁(郡衙の中枢機構で実際に政治を行う場所)、正倉(税金を納める倉)、厨家(郡衙の
       食事や来客時の宴会などを行う機関)などがあります。今後の調査でその中心である政庁域と確認
       されれば、旧上座郡で最も重要な遺跡となりそうです。(広報あさくら3月号より)

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